2歳半の愛犬

オーストラリアンシェパードについての記事を書いたのは半年ほど前だった。今、愛犬は2歳半。また少し成長したように感じている。

一番はぼくらのちょっとした動作への読みがさらに洗練された点だと思う。言葉を出さずとも、こちらの意図を察して動いてくれる事が格段に増えた。例えば散歩中、ちょっとこっちに寄ってほしい時や進む方向を知らせる時など、ぼくは何の動作もしていないと思っているのだが愛犬には分かるようだ。こういった愛犬の"察する力"は子犬の頃から見られたが、最近になって特に際立っている。人と働くワーキングドッグはみなこうなのかもしれないが、いつも驚かされるし、こちらの意図を察してくれる愛犬に感謝である。

2歳の頃も「大人になったなぁ」と感じる場面があったが、そう感じる場面はさらに増えている。突発的な出来事に対するテンションの上がり方も、若犬の頃に比べてかなり落ち着いた。当時は「困ったもんだ、、」と感じていたが、いざ愛犬が落ち着くとちょっと寂しくもある。

 

成長と共にいろいろと変わってきた愛犬だが、優しい性格は変わっていない。何というか、控えめで、あらゆるものへの接し方が柔らかく優しい。そしてびっくりするほど寛大である。

愛犬の寛大さについては、最近も驚いたエピソードがある。夜、明かりも持たずに愛犬と散歩していた時のこと。並んで歩いていたのだが、ちょっとぼくが何かに気を取られて愛犬から目を離した時に、愛犬がぼくの進路を遮るように目の前に入ってきてしまった。愛犬は匂いに気を取られて衝動的に動いたようで素早く、よそ見していたぼくは咄嗟に対応出来なかった。だからもろに愛犬とぶつかってしまった。

歩いていたぼくの足が横っ腹に当たってしまった愛犬は、声こそ出さなかったが明らかに痛がっていた。その時、ぼくは愛犬が怒るかな?と思った。立場を替えて自分だったらと考えると、突然攻撃されたように感じて少なくとも反発的な反応をするだろうと思ったからだった。だから優しい声音で「すまんすまん、よそ見してた」とすぐに愛犬に声かけをした。

そして、ぼくに対して愛犬がどんな反応をしたかと言うと、「仲直りしたい」というように視線をしきりにぼくに送り「ごめんなさい」と言っているかのようでもあった。愛犬は全く怒っていなかった。けっこう痛かったろうに、怒りや攻撃ではなく、和解や融和というような反応をぼくに示したのである。その後ぼくは「怒ってない、怒ってないよ」と愛犬の勘違いを正そうと声かけしながら歩いたのだが帰宅するまで愛犬の申し訳なさそうな態度は変わらなかった。

ぼくは愛犬のこの反応を見て、なぜ犬というのはこれほど寛大なのだろう?と驚かずにはいられなかった。嫌なことをされてもたいていのことは許してくれ、飼い主に愛情を示してくれる動物。ちょっと普通では考えられないとぼくは思う。

そして、ヒトの子供も似た寛大さを持っているとすぐに思い至る。親に虐待されている子供が親に「ごめんなさい」と言ったり、保護を求めるのはよく知られたことでしょう。それはほとんど叫び出したくなるほど悲劇的で多くの真っ当な人の心に刻まれずにはいられない子供という存在の真理だと思う。

 

寛大さ。それは保護者への愛着や愛情の強さ、と言い換えることができるのかもしれない。イヌもヒトの子供も保護者を愛さずにはいられない存在だ※。そんな存在を裏切ることはできない、と思うのがヒトの心であろう。だから愛犬に対しても娘に対しても、彼らの寛大さに甘えず、けして裏切らない真摯な態度をぼくは肝に銘じている。

話が逸れてしまったけれど、愛犬は無事に2歳半になりました。犬の飼い主は誰もが自分の犬は最高だと思っているはず。ぼくもそんな一人です🐶

春に撮った一枚

※近年のイヌ研究で、オオカミから家畜化される際に変異したある遺伝子(ヒトの場合はウィリアムズ症候群の原因となる遺伝子)が、イヌの愛情深さの原因ではないかとわかってきているようだ。

参考

「イヌは愛である 「最良の友」の科学」クライブ・ウィン (著) 早川書房

(感傷的なタイトルに対して動物心理学教授の著者が多くのエビデンスを元に自身の仮説を証明しようとしていくとても読み応えのある本です)

natgeo.nikkeibp.co.jp